「ああ、お酒が飲みたい!!」禁酒、断酒を始めると皆一様にこのような心境になるんじゃないですか?
特にやめたての緊張期(0日〜14日)の二週間はこういった「飲酒欲求」との闘いです。
これはアルコールに対してあなたの心が「反応」しているのです。
そんな「反応的」なあなたにおすすめしたいのが今回ご紹介する本、「反応しない練習」です。
原始仏教のエピソードや教えを下地に、「反応」する心への対処方法を学ぶことが出来るでしょう。
著者の草薙龍瞬氏は無宗派の僧侶。
中学を中退後に16歳で出家して、大検で東大法学部入学。卒業後、政策シンクタンクで働き、現在はインドでNGO法人を立ち上げ社会貢献に励んでいるという、なかなか凄い経歴のお坊さんです。
本書を読めば、あなたの中にある飲酒欲求という「反応」の「理解」を得られるハズです。
\初回契約で1ヶ月間無料/
悩みをまず理解する
「反応」する心を知ろう
本書では最初にブッダの教えとして、「心の無駄な反応を止めることで、いっさいの悩み・苦しみを抜ける方法」が紹介されます。
それは大きく二つ。
- 心の反応を見ること
- 合理的に考えること
①の心の反応を見るとは、座禅やマインドフルネスなど瞑想で自身の心と向き合う修行の他、日常における「作務」などがそれにあたるでしょう。
「作務」とは禅寺で、僧が掃除などの労務を行うこと。修行の一つとされる行い。
別にお寺で修行しなくても意識的にそう動けば、私達のような一般人による普段の行いも「作務」の一環といえます。
②の合理的に考えるとは、「無駄に反応しない」「悩みを増やさない」こと。
そして本書ではこの「無駄に反応」せず、「合理的」に生きるためのヒントを主体に提案していきます。
散財し、健康を害し、酔っ払っては粗相をしでかし、犯罪や事件、事故発生の可能性を増大させる。
飲酒が原因で精神を病み、それを誤魔化すためにまた飲む。そして依存症になり、飲まずにはいられなくなる。
禁酒、断酒を決行するということは、これまでの不合理な生き方から、合理的な生き方に転換する人生におけるイノベーションであり、「解脱」です。
大袈裟!
この本はそんな飲酒欲求に「反応」してしまう、ココロを自覚し、心身ともにその反応的苦悩から、少しでも楽になるための助けになると思います。
苦しみが何ゆえ起こるのかを、理解するがよい。
初転法輪経サンユッタ・ニカーヤ
苦しみをもたらしているものは、快(喜び)を求めてやまない”求める心なのだ”。
つまりお酒そのものが、あなたを反応させ、快を求める執着の源である。依存症にまでなった人は、飲酒以外に快を見つけることが、一番の解決になるのはもうすでに実感しているのではないでしょうか。
求めれば乾き続ける
ブッダが発見した”求める心”taṇhā(タンハー)とは、「反応し続ける心のエネルギー」のこと。
人の心の底に、生きてる間ずっと流れている意識のことです。
アルコールは強い利尿作用があるため、摂取すると体内の水分がどんどん外に流れてしまいます。
つまり飲めば飲むほど喉が乾くとんでもない飲み物なのです。
これほど人間の欲望を見事に具現化した嗜好品も珍しいと言えますね。
ゆえにアルコールに溺れると、「足るを知る」といった基本的なことすら忘れてしまうのでしょう。
そして感情的になり、その感情に反応するままお酒を煽る悪循環に陥ってしまうのを私も既に何度も経験しています。
つまり飲んだところで決して満足はしないという事になりますね。
そして今現在は「適度に飲む」より「一切飲まない」が圧倒的に楽だということを悟りました。
大分時間がかかりました(泣)
あなたにとって最も頼りになる人間は誰でしょう?
あなたにとって最も信頼に足る人間、それはこの世にただ一人、あなた自身しかいません。
あなたの幸せの決定権、選択権は常にあなたの中にしか存在し得ないのです。
我々はそれをどこか、お酒という無機質な物体に求めていたのではないでしょうか。
「判断」をしない
自分にとって役立つかどうかで考える
結局「人は人、自分は自分」というところに尽きるのですが私自身、飲酒脳の時分は常に自分の尺度で判断し、比較する悪癖がありました。
今もあるけど…
飲酒するのも、禁酒、断酒するのも結局のところ、自分にとってその選択が有益かどうかを突き詰めて考えるだけでいいでしょう。
「世間がこうだから」「周りがこうだから」という判断基準は役に立ちませんよね。
飲む人生も、飲まない人生もあなたにとってソレが役立つかどうかが全てです。
私にとってはやはり飲まない生活が有益だと、断酒の日数を重ねるたびにその思いも大きくなっていっています。
こんな時、過去の私もそうですが、「やっぱり自分は意志の弱いダメな人間だ」と落ち込んでしまいます。
しかしこのような自己評価も「判断」となります。
「判断」は自分自身が生み出した「妄想」にすぎず、自分の生み出した妄想によって自己憐憫に陥る悪循環でしかありません。
そしてそのような「認知的不協和音」に陥ると、自己正当化のためにいわゆる「fight or flight」「闘争か、逃走か」の状態になります。
これは生物的本能の「反応」です。
つまり攻撃か、逃避の二者択一。
攻撃の行動としては、キレる、怒鳴る、嫌がらせや迷惑行為。また自身への攻撃として自分を責める、嫌う、自分は無能で無価値な人間と考え、死にたくなる。といった「反応」。
逃避の行動としては、さぼる、手を抜く、無気力になる、鬱になる、刺激・快楽に依存する。
スリップすると、やはり少なくない方がやけっぱちになり、タガが外れ以前より大量飲酒に走ってしまうのはこのような「判断」によるものと言えそうです。
このように「反応」と「判断」という心情は中々に厄介で、これが禁酒、断酒の継続を妨げている要因と言えそうですね。
では、一体どうすればいいのでしょうか。
多くの人は「判断しない」訓練を積んでいません。
僕も
「判断しない」訓練とは?
「判断しない」ための具体的な行動は以下の通り。
- 一歩一歩と外を歩く
- 広い世界を見渡す
- 「私は私を肯定する」と自分に語りかける
と、いった方法。それぞれ詳しく見ていきましょう。
①一歩一歩と外を歩く
当ブログでも朝散歩は心と身体にとてもいいと記事にしていますが、やはり本書でも外を歩く事が推奨されています。
外を歩き、肉体がキャッチする「感覚」に意識を向けるようにしましょう。
こうして「今ここにある確かな感覚」を意識しながら一歩一歩外を歩くことで、頭の中のもやもやが徐々に晴れていきます。
その時は音楽などを聴かず、外界のあらゆるものを五感で受け入れるように意識してみましょう。
どれくらいやれば良いのかという基準は特にないので、あなたの時間が許す限り、気の済むまで歩いてみるのがいいでしょう。いつでも簡単にできるのでとてもおすすめです。
私もよく海辺をぶらぶら歩くよ
②広い世界を見渡す
外の世界を見渡せば、色々な人が生きています。
「わたる世間に鬼は無し」などというように、世の中は大抵いい人ばかりです。
ましてやあなたを否定する人間などほとんどいません。
まあ、皆さん日々一所懸命生きているので、そんな発想は普通ありませんよね。
自分でそう妄想し、判断していることがほとんどと言っても過言ではないのです。
それでもあなたに嫌がらせや、否定的な言葉を投げかける人も少しはいるでしょう。
しかしそんなレアな人に反応していては、あなたの素晴らしい人生がもったいないと思いませんか?
そんな輩に出くわし、心が傷付いたら、まず自分の内側に意識を向けて、反応してしまっている自分を理解してあげましょう。
そして、反応からくる苦悩は妄想だと割り切って、嫌な人に割く時間が勿体無いと自分に納得させることが出来れば、あなたは幸せに一つ近づく事ができるのです。
③「私は私を肯定する」と自分に語りかける
これはいわゆる、「ポジティブシンキング」とはちょっと違います。
自分に肯定的な「暗示」をかけるのではなく、ありのままの自分を認めるということ。
「私は私を肯定する」と自分に語りかけることで、判断をしないフラットな心情に持っていけます。
満たされ無い環境、心情でも「これでいい」とまず受け入れることでそこからスタートできるのではないでしょうか。
禁酒、断酒に限らず、どんな時もあなたの人生は「いつもここから」です。
がぶ飲みしたい時~~~~!!
以上が本書で紹介される、反応しない訓練の具体的なやり方となります。すぐに実践、という訳にはいか無い人もいるかもしれませんが、覚えておいて損はないでしょう。
禁酒、断酒は超カンタン!?
難しく考えるから「妄想」してしまう
シンプルに考えてみましょう。
禁酒、断酒はただお酒を「飲まないだけ」です。
妄想を払ってありのままに現実を見れば禁酒、断酒ほど楽で簡単なものもないのではないでしょうか。
離れれば離れるほどアルコールの毒は体内、脳内から消えていきます。
適度に飲むより、一切飲まない方が圧倒的に楽なのは結局、
アルコールが呼び起こす「判断」や「妄想」から離れることが出来るからだと私は感じています。
個人の感想です
人は自らの心を整えず、あれこれと判断して、心を失っている。あちこちに目をやって、一体何の役に立つだろう。自己にこだわる意識を抑え、人の評価を追いかけずに、自らの心の内をよく見るがよい。
長老クマープッタの修行仲間の言葉テーラガーター
これでいいのだ、これがいいのだ
お酒を必要としない自身の生き方に納得できているのかどうか、ということ。
これがなければ、いずれ再飲酒は免れないと思います。
逆に考えれば、お酒の有る人生が自身とって「納得感」のある人生ならば、飲んだ方が良いとも言えますね。
では私の場合、確固たる「納得感」を持って断酒を継続しているのかと問われれば、答えはNOです。
やはり未だに飲酒の楽しかった思い出が蘇るし、「ちょっとくらい良いかな…」といった甘い考えがよぎるのが正直なところです。
つまり今現在も未練たらたらで、心はアルコールに反応している状態だと白状します。
本当に情けない
だけど「今日は飲まない」「今日も飲まない」という選択を続けて日々心を洗濯しています。
おそらくあなたも、そういった逡巡を繰り返しながら毎日を送っているのでは無いかと推察します。
しかし、それで良いのだと思うのです。
つまり私たちが目指すべきは、お酒への執着を手放すこと。
お酒のない新しい人生への「最高の納得」と言えます。
これは一朝一夕には出来ないと思います。
しかしそういった自身の目標、ゴールが設定できれば、今自分がやるべき、取り組むべき課題が明白になるのではないでしょうか。
私たちの課題は決して複雑なことではありません。
至ってシンプル、「今日だけ飲まない」、これだけです。
そうやって自身の向かいたいゴールが明確になれば、飲酒欲求に反応する弱さも受け入れられて、いずれ克服できる。
私はそう考えて飲まない選択を今日も続けている次第でございます。
いつだって判断基準は自分自身の心、ただそれだけです。
そして私は今日もシラフ人生の「最高の納得」を持てるように自身の執着から逃げずに向き合っていこうと考えています。
お酒に執着するのは人として当然
酒というものほど、我々を「反応的」にさせるものは中々ありませんね。
なので飲酒欲求として、心と身体が「反応」するのはむしろ当然と言えるでしょう。
この当たり前すぎる事実を自覚するかしないかで、断酒継続の難易度は天と地ほど違うのだと私は身をもって体感しています。
人によって時間がかかると思いますが、私は誰でも可能だと思っています。
そして本書はそのような飲酒欲求に「反応」しないための鍛錬を積むための足がかりになるでしょう。
不思議なものでこの辺を意識して過ごしていると、半年、一年、一年半と時間が経つにつれ、徐々にではありますが精神のコントロールが容易になってくるのを実感できます。
それだけアルコールというものはセルフコントロール能力を削いでしまう、厄介な飲み物なのです。
快を大切にしよう
人はみな幸せになりたいもの、ではその幸せとは何なのでしょうか。
それは不快な状態を取り除き、快の反応を得ている状態です。
「快の反応を大事にする」とは、欲求を素直に、否定することなく、満たしてあげることが、幸せへの近道と本書には書かれております。
快を大切に…ってことは欲求に任せて飲酒してもいいのか?
我々のような人間ならば即座にこのような思考に至るでしょう。
ほんとどーしょーもねーな
ある意味でそれは正解だと思います。
お酒を飲み続ける快をどうしても手放したくないのなら、禁酒、断酒は当然不快を伴う行為です。
事実、禁酒や断酒はそこに快を見出すことができなければ、間違いなく破綻します。
そして、快を見出すことができる状態になるまでには少なくとも半年以上、人によっては1年以上の時間が必要です。
私は1年かかった
焦りは厳禁
しかし、2年、3年と年月を積み重ねるごとに得られる快はゆっくりとしかし確実に味わい深い強固なものになるのです。
アルコールのような即効性や強烈な快楽(ドーパミンドバドバ感)はありません。
しかし健康を全く損なうことなく、自分の時間を最大限にかつ有意義に使い、快を味わうことが出来るようになるでしょう。
しかもタダ!
これは私の個人的な感想では決してありません。
2年以上の断酒が継続できている先輩方が皆、口を揃えておっしゃっている厳然たる事実です。
エビデンスバッチリ!
- お酒を飲んで得られる、刹那的な享楽をとるか。
- 禁酒、断酒を数年積み重ねて得られる、ナチュラルな快をとるか。
あなたはどちらの快を得たいと考えますか。
この二者択一は自身にとって「納得感」が伴っていなければ決して幸せな気持ちは持てないと思います。
よくよく考えて選択したいものですね。
私自身アルコールによる快は散財や二日酔い、脳機能の破壊などといった「不快」極まりない代償があるため、あまりにも割に合わないと考えるようになりました。
本書においても欲が膨らみすぎて、焦りや不安といった不快を感じるようになったらその欲求は一旦手放すほうが良いと言っています。
ムダな欲求に手を伸ばして「不快」を抱える生き方は、不合理なのです。
ふむふむ…
合理的!
承認欲求の合理的な対処法
心理学者のアドラーによると承認欲求はそのものが無駄なので捨て去るのが正解だと言いました。
確かにその通りではあると思いますが、ブッダのような覚者でもない限りなかなか難しいでしょうね。
なのでこの本では承認欲求をきちんと自覚して、自分にとってプラスに作用するようにすることが生きやすくなる工夫だと教えてくれています。
それが難しいからみんな悩んでるのでは…?
そのための第一段階として、「比較をする」という行為自体が、実は妄想の産物で、不合理極まりない考え方という基本思考を身に付けることでしょう。
自分より上だと「設定」した人間に嫉妬したり、下だと「勝手」に設定して見下し、安心する。
そういった思考そのものが非生産的で、不合理である。
これらは全て自分で作り出した、ただの幻影であり妄想である。
その「気づき」がまず、最初の一歩と言えるでしょう。
- 承認欲求は比較を生み、比較は妄想を生む。
- 妄想は反応を生み、反応は執着を生む。
- 執着が苦しみを生んで、苦しみが不幸を生む。
こうして、順序立てて考えてみると、承認欲求に対する「無自覚」が不幸を呼び寄せているとわかるのではないでしょうか。
そしてその不幸に対する自己憐憫でお酒を煽る、なんて人も少なくないかも知れませんね。
…うっ!
そんな承認欲求に振り回されないための「正しい努力」として三つの条件があります。
- 認められたい気持ちをモチベーションにして、今の仕事・生活を「改善」していく。
- どんな時も「自分のモノゴトに集中」する。
- 「自分で納得できる」ことを指針(基準)とする。
出家して仏の道に進むつもりでもない限り、承認欲求は大切にしていいのです。
ただ、承認欲求はあくまで動機、目的にしてはいけません。
やはり、承認欲求と依存症はかなり親和性が高いのではないかと私は考えます。
認められない、上手くいかないなど、承認欲求が満たされ無い憂さを晴らすため、お酒を飲む。
そして量をわきまえず、煽り続けて依存症になる。
このような構図の人は少なくないと推察します。
なぜなら、結果を下すのは自分ではなく、他者だからです。
他者は決してコントロールできません。
- 影響の輪は自分でコントロールできる領域のモノゴト。
- 関心の輪は自分ではコントロール出来無い領域のモノゴトです。
承認欲求を目的化してしまうと、目的地が「関心の輪」のなかに設定されているので、目的地に着くことが非常に難しくなってしまいます。
無理ゲーやん!
なので承認欲求を自覚し、その欲求はあくまで「きっかけ」として、自分のモノゴトに集中し、目的を自分の中、つまり影響の輪の中に設定するのが好ましいと言えるわけですね。
全てあなた次第
私のしょうもない例ではありますが、私は1年前まで、懸垂が全く出来ませんでした。
いきなり何言ってんだ?
しかし、「5回以上出来るようになるぞ」と自身の影響の輪の中に目的地を設定して、努力してみたところ、現在では10回位出来るようになりました。
ホントにしょうもないな
それこそ禁酒、断酒も全く同じ。
自分の指針(基準)で1ヶ月、半年、1年、3年と目的地を示せば、たどり着いた時達成感を得られること請け合いです。
失敗したとしても何度でもやり直せます。
承認欲求の先は大抵、目的地が関心の輪にあります。
まずそのことを理解することが大事なのではないでしょうか。
なので目的地を影響の輪の中に再設定して、自分のモノゴトに集中すれば、目的地に辿り着けます。
その達成感があなたの自己肯定感を満たし、幸多き人生の糧になるのです。
そして、その挑戦の繰り返しで、影響の輪が広がり、これまで関心の輪にあったモノゴトが影響の輪の内側に入っていくのです。
自分に全集中すれば、少しずつ不可能が可能になる!?
禁酒、断酒はそのような人生の助けになると私は考えていますが、あなたはどうでしょうか?
改善・集中・納得。禅から学ぶ対処法
改善とは快を感じられる工夫をすることです。
特に断酒開始直後は飲酒欲求に悩まされ、快を得にくい状態になるのは既知の事実。それゆえ各々で改善をする必要があるでしょう。
寝やすくするために、就寝2時間前に湯船に浸かる。
サウナに行く。
といったことから、アロマやリラクゼーションBGMなどを用いてリラックスできるようにする。
照明の色温度にこだわるなど様々です。
集中は普段の仕事業務などの他、本を読むなど。また筋トレ、ランニングといったワークアウトもおすすめ。
資格試験などの勉強を始めるのにもうってつけですね。
そしてこれら一つ一つの行動をできる限り、丁寧に行う。
そうすることで内から湧いてくる「自分はやれば出来るんだ」という自己肯定感を受け入れる。
そうすることで禁酒、断酒という「作務」に納得できると思います。
他人の評価や社会的意義などはいったん脇に置いて、自分の快と納得感を見つけて邁進することが望ましいです。
他人の物事のために、自分のなすべきことを捨て去ってはならない。自分の物事を熟知して、自分のなすべきことに専念せよ。
ダンマパダ、自己についての章
お酒のない人生に納得できれば最高
禁酒、断酒において一つの到達点と言えるのがこれまで繰り返し述べてきた納得感です。
この人生に対する納得がなければ、禁酒、断酒という行為は、健康や倹約のためにただ、我慢を強いられる不快な行動になってしまうでしょう。
なのでどうしてもお酒の未練を断てない人は無理をせず飲むのも決して悪い選択ではないと思います。
というより、お酒から離れたいという、強い思いがなければ、土台断酒の継続は無理なのかもしれません。
なのでそういった気持ちがない人は無理してやめても続か無いとも言えます。
ただ、いったん離れてみる事で、あなたなりの快を見出せるかもしれ無いので、「まずやってみる」という選択は非常に有効でおすすめです。
自分の内面とよく向き合い、自分とお酒との関係をしっかり熟考した上で、自分にとっての快を追求する。
その先にある、あなたにとっての最高の納得を求めていきたいものです。
私自身で言えば、かつてのような強い飲酒欲求はありませんが、時折まだ「ちょっと飲んでみたいな」と思うことがある事はさっき言いました。
しかし、現在600日以上継続できているのは、
自分にとって飲酒は一時の快楽と引き換えに多大な不快、不安を被る行為なので、やはりお酒とは離れたい思いの方が強いのです。
私は飲酒という行為から完全に手を引いてお酒のない人生に快を見出していく所存です。
お酒のない生き方に快を得られれば、そこにお酒に対する執着も反応もありません。
そこを目指して焦らず、ゆっくりと自分の人生の快を充実させて生きていきたいのです。
現実も人生も続いていく。
その日々の中で自分の苦しみを増やさず、「納得できる」生き方をしよう。
そういった考えがブッダの教えです。
あなたにとってお酒のない人生に「最高の納得」を得ることができれば、これ以上の幸せはないのではないでしょうか。
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